aichikenminの書斎

20代サラリーマンが、読んだ本と、心に残った言葉、その時考えたことを徒然なるままに書き留めたもの(金融、理系、工学、航空機、読書)

【読書】姑獲鳥の夏/京極夏彦 この世には不思議なことなど何もないのだよ

僕等が見聞きしているのは凡て仮想現実なのだね。それが真に現実かどうかは本人には区別がつかないのだったね

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

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京極夏彦といえば、ホラー系ミステリ

幽霊と現実の狭間。

だが、心理学の要素も含まれており、非常に論理的。

 

ワトソン視点が客観性を損なうことが本作の特徴であろう。

そもそも客観的でフェアである必要などないのだ。

 

そして、人間の記憶の曖昧さ、不明瞭さと脳の働き。

これらについて考えれば考えるほど、本作は面白くなる。

自分は今何を読んでいるのか。

本当に京極夏彦が書いた作品を読んでいるのか。

京極夏彦が書いた作品を読んでいると脳に錯覚させられており、実は現実なのではないだろうか。

 

主観を排除することはできない

「君には判断できない筈だがね。」

真実についての登場人物たちの議論。

ずっと生きていたのか、それとも今までの記憶を持ったまま今生まれたのか、人間は区別することができない。

記憶というものは、記録されているものを脳で再構成し、再生するもの

だから記録されているものと異なる方向に再構成されることもある。

なぜなら主観が入ってくるから。

見たくないもの、目を背けたいものから無意識下で脳が選択していることも往々にしてある。

そんなとき、我々人間は何にすがればいいのだろうか。

何に頼ればいいのだろうか。

 

「言葉というのはクセ者だ。例えば今いったように共同幻想を生む」

人は他人と意思疎通を図る際に言葉を通して行なう。

前提として、一つの言葉が同じ意味を持ち、同じ事柄を指していることがある。

だが、言葉の意味について、人それぞれ思いは異なってくる。

なぜなら今までの経験や背景が違うから。

だから、意思疎通をしていても、言葉の表面上だけかもしれない。

本当に思っていることはずれていたりする恐れもある。

だが、言葉を通すことで、曖昧さを残しつつ、集団ができたりする。

そして、宗教となる。

自分に当てはめたら信じれる。

なぜなら元が言葉だから。

 

 

情報の恣意的な取捨選択

「世間は素通しで見えている訳ではないのだ。必ず取捨選択が行われている」

体の器官は取捨選択を行っている。

なぜならすべての情報を得てしまったら、我々の脳はパンクしてしまうから。

意志が介在する前に、情報の取捨選択が行われている

見たいものしか見ないこともできるのだ。

だが、意図的にそうすることはできない。

なぜならその時点で認識してしまっているから。

本作においても、無意識下での取捨選択が鍵となっていた。

 

なぜ文章を書くか

「読むことを前提とせずに書かれる文章などはこの世にあり得ないのだ」

作者の叫びのようにも聞こえる。

文章を書くのはなぜか。

書いて満足するのではなく、それを読むために形づくられるのだ。

書くという行為自体に満足感を覚えるかもしれない。

だが、そこで作成された文というのは、誰かに読まれるのを待っている。

それが何年か後の自分だとしても、記録としてその場所に留まって、待っているのだ。

脳の中にある記憶は改ざんされるが、外に出された記録は変わらない。

 

「怪異の形を決定する要因は、生きている人、つまり怪異を見る方にあるということだ」

怪異は本来見えないもの、存在しないものである。

それを見ることができるのは、生きている人だけ。

なぜなら死んでしまっては何も見ることができないから。

怪異は見る人が脳の中で作り上げ、あたかも目で目撃したかのように錯覚させるのだ。

だから、見る人間が作り上げている。

そして作り上げているのではなく、本当に存在したのだと信じているものだ。

 

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