【読書】人魚の眠る家/東野圭吾 死とはなにか 法律と哲学、科学の乖離
帯の言葉
「答えてください。娘を殺したのは、私でしょうか」
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帯にこの言葉が書いてあります。
読む前は、サスペンスなのかと思っていたが、読了後全く違う意味だと気づく。
死というものはなにか、法律と哲学、科学の乖離。
何を信じるかは自分次第だと。
無宗教が多い日本にとって信じるという言葉は難しいように聞こえるが、
何を信じるかは自分で決めるのだ。
心に残った言葉
「誰だってロボットなんかを使わず、自分の手で御飯を食べたり、自分の足で歩いたりしたいに違いないと思ったんです」
技術が医療に多大な影響を与えながらも、実際どうやって暮らしていくのがその人にとって幸せなのか。
しっかり考えたうえでなければならないのだ。
「毎日毎日、同じことを悩んでいるようでいても、その本質は微妙に変わっていくということです」
確かにそうかもしれない。
悩みについて考えれば考える程変化する。
「人の生き方は論理的でなくともいいと思うのです」
論理で割り切れないことはたくさんある。
仕事と生き方は違うのだ。
「この世には狂ってでも守らなきゃいけないものがある」
他人の目を気にすることでしか、生きられないのであればそれは意味が無い。
自分が信じることは自分で決める。
それが生きるということだ。
東野圭吾の小説がもつ魅力
技術が発達するがゆえに、それを利用する人もより深く考えることを求められる。
常に哲学、倫理と科学はセットであるのだと僕は思う。
東野圭吾の小説は、科学技術に対する考えに訴えかけてくる。
もっと考えろ、自分の考えを持てと。
僕はもともと理系なので、こういったテーマがよりハマるのかもしれない。
しかし、「文系なので~」というように逃げることはせず、技術に関する考えは皆が持つべきなのだ。
理解しようとする姿勢が重要である。
科学を題材にした小説が、苦手な科学に対するきっかけになってくれればそれはまた良いことだろう。