【読書】ゴジラとエヴァンゲリオン/長山靖生 予定調和のゴジラと破滅の度合いを強めるエヴァ
ゴジラはただの子供向け怪獣映画ではない
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シン・ゴジラが公開されて話題になっている昨今。
僕は、ゴジラをちゃんと見たことがない。
今回のシン・ゴジラを見たいと思っている。
そんな中、本屋さんで目にした本作。
映画を見る前に読もうと思い、即買してしまった。
そもそも、ゴジラが原水爆により生まれたことすら知らなかった。
ただの子供向け怪獣映画だと思ってなめていた面は大いに反省すべきだと感じた。
ゴジラ、エヴァンゲリオンといった特撮、SFの系譜とともに、日本の歴史を紐解くような本作。
たかが特撮、たかがアニメとばかにするのではなく、その背景にあるものに思いを馳せることで、
人は同じものを見ていてもえられるものは大いに違ってくる。
そう感じさせてくれる一冊であった。
ゴジラのルーツは恐怖
ゴジラは何故生まれたか。
それすら知らなかった僕にとって、この情報は非常に新鮮かつ重要だと感じた。
単なる怪獣映画ではなく、その時代の戦争に対する思いや人々の気持ちを表現する作品であった。
表面上のイメージだけで判断していたら、僕はこの映画を見ることすらなかっただろう。
そうやって今まで無駄にしてきた機会もあったのかもしれない。
日本人らしさの特攻精神
「目的を達することを再優先し、対象と刺し違える特攻的設定は、50年代から70年代前半にかけての特撮やアニメによく見られたものだ」
自らを犠牲にして、何かを達成する。
そのような自己犠牲の精神は当時の日本人にとってリアルな表現であったと著者は指摘する。
戦争における特攻や、個よりも全体を優先する日本人にとって分かりやすいものである。
当時はそれが受け入れられていたということを踏まえながら、理解していく。
そうやって作品は受け継がれていくのだろう。
明示的かつ簡単なものへの需要
「ゴジラ第一作のように無意識に訴えかけるそれではなく、明示された教育性・教訓性の形を取る」
ゴジラは時代とともに子供向けになっていく。
第一作は明確に訴えかけるものではなかったのだが、徐々に対象年齢を下げ、わかりやすさを重視し始めた。
恐怖というよりも、プロレス化、ファンタジー化という方向にシフトする。
それが時代の求めるものであったかもしれないが、ゴジラとしての意義は失われていった。
エヴァとゴジラの類似点
現在で言う箱根のあたりだ。
東京は水没し、その際に、首都機能は第二新東京市に移された。
第二新東京市は長野県松代である。
そこは戦争末期において本土決戦が現実となった際に、皇居と大本営を移す予定のあった場所なのだ。
エヴァも使徒という未知の生物が日本を襲ってくる。
ゴジラと同様の本土決戦を想定した物語なのだ。
正義と悪は簡単に区別できるものではない
「明確な悪人も登場するが、複雑な人間関係と政治状況により善悪の区別が困難ななかでの闘うことの意味の不透明化というドラマが持ち込まれ、それまでのアニメとは一線を劃すものとなった」
ガンダムにおいても、アニメ史上において忘れてはならない点は多々存在する。
その中でも強調すべきは、善悪と正義は必ずしも一致しないということだ。
今までのアニメでは分かりやすい悪人が出てきている。
そして主人公は有無をいわさず正義である。
だが、ガンダムは違う。
皆が政治状況により自分の正しいと思うことをやって、その結果争いが生じる。
何が善で何が悪か、正義はどちらか、それの判断が難しい状況にある。
忘れてはならないのは、これが現実なのだということ。
現実では善悪の区別など明確につくことのほうが少ないのだ。
よりリアリティに満ちた世界を突きつけられる我々はそこから目を背けてはならない。
ループにより希望や苦悩は増幅する
「歴史は概ね同じらしいが、ところどころ違っていて、だからこそ繰り返しの試行錯誤は希望であり苦悩でもある」
エヴァンゲリオンは繰り返しの物語と言われる。
新劇場版では、渚カヲルがメタ的発言をすることにより、世界が繰り返されていることが確認できる。
登場人物は同じ、だが、世界は変化していく。
救いを求めるために、救いを見つけるために何度となく繰り返されていく。
だが、未だQにおいても世界の救いを見つけることはできていない。
エヴァンゲリオンにおいても表象だけを見ていては、希望と苦悩に満ちた本質を理解することはできない。
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