【読書】コンテクスト・オブ・ザ・デッド/羽田圭介 俺の思考は、本当に俺の思考だったか?
芥川賞作家が放つゾンビ小説
編集者の須賀が渋谷で作家と打ち合わせをしているさなか、スクランブル交差点でゾンビを目撃する。
その後、各地でゾンビの出現が相次ぐようになる。
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ゾンビに噛まれると、ゾンビになる。
しかしながら、人々はそれを冷ややかな眼で見る。
自分に関係ない、些細な事だと思い込むことで恐怖から目をそらしているのだ。
やがてゾンビは全国に広がり、過去に死んだ文豪たちも蘇り始める。
また、噛むことでゾンビを人間に戻す能力をもつ救世主も現れる。
しかし、救世主も完璧ではない。
成功率は二割程度。
失敗すれば死をもたらす。
救世主は自分の能力に怯えを抱く。
世間はそんなことお構いなしに、救済を求める。
数の暴力、人の醜さに押しつぶされる。
世間に流されること、自分の意思を持たないこと。
それはもはやゾンビである。
周りに流されることなく、我を持つことこそ、この世界で生き残るための手段なのだ。
果たして、自分は生きているのだろうか。
無理矢理に目をそらすという行為
「不思議なことに、恐怖感を露わにしている人はこの野次馬の群れには一人もいない。それどころか、ニヤニヤと笑っている者さえいた」
渋谷の街にゾンビが現れた。
しかし、人々は薄い反応。
なぜならば、どうしていいのかわからない、規格外の状況であるから。
すべては予想の範囲内であると無理やり自分に言い聞かせることで平静さを保とうとしている。
実にありがちな行為だ。
自分の意志で生きているのか
「あなた、まだ、自分が生きていると思っているんですか?」
売れない小説家に対し、編集者はこう思う。
小説家は、ぎりぎり文壇の中に残っていると思い込んでいる。
だが、実態はそこから押し出された落伍者である。
現実を見ることができず、自分にとって都合の良い解釈しかできない。
この発言、読者にも突き刺さるのだ。
社会批判の一節
「前を向いて歩けない若者たちは多すぎた」
ゾンビはうつむきながらゆっくりと歩く。
それはまるでスマホを見ながら歩く若者のように。
現実を直視するのではなく、スマホを通して、他者の解釈を通してしか見ることができない。
強烈な現代社会への皮肉が見て取れる。
他者と違うことを極度に恐れる民衆
「世間の足並みや論調、一般論から外れたくない」
世間はなぜまとめサイトに熱中するのか。
そもそもその情報が必ずしも正しいわけではないのに。
その理由は、多数はに属していたいから。
民主主義により生まれたゾンビとも言えるのではなかろうか。
自分自身で生み出したものはあるか?
「自分はこれまで創作をしてきたつもりだったが、本当になにかを創ったことなど、一度でもあっただろうか」
「俺の思考は、本当に俺の思考だったか?」
世の中にはオマージュという言葉が溢れている。
自分がゼロから作り出したものはどれだけあるのだろうか。
自分が創ったと思っていても、周りからの影響ではないと言えるだろうか。
世間に、空気に、作らされているということはないだろうか。
「生物として、魂の入れ物としての肉体は、まぎれもないオリジナルだ。しかしそこに入れられた中身も、オリジナルだといえるか?」
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